えがお.com

interview矢作直樹さんインタビュー

矢作直樹(やはぎなおき)

横浜市で出生。昭和56年金沢大学医学部卒業、麻酔科を皮切りに救急・集中治療、内科、手術部などを経験。平成11年東大工学部精密機械工学科教授。平成13年より東大医学部救急医学分野教授および東大病院救急部・集中治療部部長。平成28年3月31日、任期満了退任。東京大学名誉教授。

株式会社矢作直樹事務所を開業。日本人がかつての死生観を思い出すことでより心安らかに暮らしてほしいと願い、『人は死なない』(バジリコ)、『天皇』(扶桑社)、『おかげさまで生きる』(幻冬舎)『天皇の国譲位に想う』(青林堂)などの著書を著した。

矢作直樹公式ウェブサイト http://yahaginaoki.jp

2018年4月18日(更新日:2019年12月21日)

自分を知ること

第1回は、矢作直樹さんにお願いいたします。矢作さんへのインタビューはこれから隔週で3回に渡って掲載されます。

—— まず、矢作先生にとって「共育」とはどういうことでしょうか?

矢作:共育といった場合には事実を知ること、知識も基本になりますが、目的というか個々人にどういう志を持ってもらうかというところが一番重要なのだと思います。

—— では、その事実や目的を知ることが、まさに共育されているということなのでしょうか。

矢作:やはりみんなによりよい日本人、当然世界への影響も有形無形ででてくるわけでしょうけど、よい日本人として生きていくためにというのが目的ですね。そうすると当然いわゆる先祖や天への感謝、いわゆる敬神崇祖といったこと、そして感謝から今度は誇りというのがでてくるでしょうし、喜びとか安寧ですね、そういうのがみな伴ってくると思うのです。自分が何かということを知ることは基本でしょうね。

—— 自分が何かを知るということは非常に基本ではありますが、逆にものすごく難しいことと思うのですが。

矢作:あまり難しく考える必要はなくて、できることからやっていけばよいと思いますね。完成形を求める必要はないと思います。

—— 具体的に自分が何かを知るという方法の中で、先生がお勧めしてらっしゃることはありますか。

矢作:いろいろあると思います。神話を含めて過去のものであるとか、あるいは今に残る史跡、もちろん過去の人による伝承からでもよいでしょう。

—— そういう歴史背景の中から今もずっと続くものということですね。

矢作:そうですね。過去から今にいたるまでのことを知るにあたっての基本的なある程度の理屈付けとしての科学も役に立つでしょうね。

——「教え育てる」というある意味一方通行に見える環境から、21世紀は多様性や対話ということがキーワードになるという上では、本来の教える側も実は教え方を教わっていたり教えたりする中で気づきがあると思うのですが、21世紀共育ラボの「共に育つ」という観点について先生の中で何かイメージすることはありますか?

矢作:やはり相手というのは千差万別・多種多様なので、今言われたように伝え方の重要性というのは大きいと思います。あとはどういう風に一般的に理解されるか、思考の癖がありますので、逆にそれを知ることによって軌道修正していく、教えるというか伝えるのです。

—— 伝える立場で先生は、実際にそういう気づきをかなり得ていらっしゃるのでしょうか。

矢作:そうですね、人の意識の壁というのがどんなものであるかというのがよくわかりますね。人の思考の癖として、天動説というか自分を中心にものを考える癖があるということをよく教わります。

—— その天動説的な考え方を先生はどのように捉えてらっしゃいますか?

矢作:それは癖でしょうけど、世界とか実相はそうではない。それをわかってもらえることが理想であっても、わかってもらえるとは必ずしも期待しない。ただ、そういう癖に気づいてもらえれば、より真理に近づくのではないかと思います。

—— 思考の癖であったりそういったことが結構あるなと思われたきっかけはありますか?

矢作:それはいつということではなく、物心がついてから今にいたるまで、いろいろな形でそのあたりのことは経験しました。

—— 先生の中で、いわゆる一般的なお医者さんの職業というと・・・

矢作:あんまり医者のことは今はもう意識にないので、医療をちょっと外れて、社会一般としての視点で見ているのです。

—— 医師として活動してこられ、そこから脱しより広いところに先生の活動の場が移っていった経緯は?

矢作:医療というのはあくまでも生活あるいは社会の営みのごく一部ですよね。もちろんそういうところから人って見える部分もあるけれども、逆に言うと、そこだけでは目的からいくとごく一部でしかないので、別に医療にこだわっている必要はないですし、また逆にそういうところから抜けないと見えてこないものがいっぱいあります。例えば、医療では量子論なんて必要ないですしね。

—— 先生の先ほどの目的意識というところで、例えば「お医者さんになろう」と思った時に、すでにその先まで目的とされていたということですか?

矢作:やっぱり人って生きる理想というか志というか目的と、ちょっと言葉は悪いですけど、実際に生業を成り立たせる部分とは必ずしも一致しないので、一言で言えば、現実的に生きていくための方便としての医療というふうに考えました。

—— 医師になろう思われた時から方便としての医療という立場にあったということですね。

矢作:そうですね。というのは結局医療でもって本当には人が救われるわけじゃないですからね。

—— なるほど、面白いですね。結構多くの方がある職業であったりそれになることを目的とされている中で。

矢作:やっぱり職業というのは、目的の部分も否定はしませんけど、それを通じて世に貢献することが本来の目的ですよね。そういう意味では、第一次産業がもっとも直接的な社会貢献ですよね。第三次産業になると、たぶんに社会の流動的な要素の中で、ある時は役に立ってそうに見えたりある時は虚業であったりというふうに、評価の意味で変わりますよ。だからそこはあんまり問い詰めてもしょうがない部分で、例えば医療というと役に立つ部分もありますが、西洋医療に限ってしまうとやっぱり人間の社会の意識の具合との兼ね合いにはなりますけど、今のあり方というのはかなり不十分ですね。そういう意味では、ある程度客観的に見ていかないといけませんね。

—— 先生の場合はまさにその観点がかなり早い段階からあられたのかなとお話を聞いていて思います。

矢作:そういう意味では、もうちょっと能力があれば、本来の自分の目指す方向にたぶん行ったか、本当の意味で世に役立つことをできればよかったんですけど、残念ながらそういう方面での素養がなかったので、少し言葉が悪いんですけど、現実的に折り合いをつけたところがありますね。

—— ちなみにそのあたりのことはどんな?

矢作:たぶん数学とか物理が本当によくできれば社会貢献って大きかったと思うんですね。ただその能力はないとかなり早い時点でわかっちゃったんですよ。(笑)

—— なるほど、それは具体的にどういう体験の中でですか?

矢作:例えば過去の優れた数学者とか物理学者の生い立ちとか、本人の論文で考え方なんかも当然書いてあるわけです。到底自分は及ばないなというのはすぐわかります。たぶんそれは中学から高校にかけてのことです。

—— 今のお話は結構キーなのかとちょっと思いました。というのも「自分は何か」を知るという時、やりたいこととできることの違いというものを自分自身である意味苦しさの中で体験しないといけない時ってみなさんに絶対やってくると思うのですよね。

矢作:それはそうですね。やっぱり無知の知を知るというのは重要なことなのでね。

—— 簡単に気持ちとしては受け入れられない部分ってやっぱりあるのでしょうかね。

矢作:どうでしょうね。他の人のことは私にはよく分からないのだけど、自分にはなかったですね。「あーこんなもんか」と、客観的にわかります。そこにあまり感情というのは生じないですね。

—— そのあたりの感覚というのはいつ頃からでしょうか。中学高校の時に客観的にご自身を判断できるというのは。

矢作:人様が言う競争の感覚っていうのがよく理解できなかったんですね。人様のスタンダードに合わせないといけない部分と、心の中にはどうでもいいというか気にしないところってありますんでね。

—— それはご両親からの育てられ方や環境の中からでしょうか?

矢作:それもないことはないでしょうけど、やっぱり「魂の癖」でしょうね。

—— なるほど。先生が今「魂の癖」と言われたようなそういう言語化ができて、ご自身の中にそこが落ち着いてきたというのはいつ頃ですか?

矢作:学んでだんだん適応してきたのかというのが質問の趣旨だとすれば、そういう感覚もないんですよね。

—— 社会一般の感じからすると、相当これは特殊なパーソナリティ、かなりマイノリティのパーソナリティだったのではないかと思うのですが。

矢作:よくわかりませんね。他の人のことに関心がないのでね。

—— 何か組織とか集団の中にいて、違いみたいなものを客観的に認識されていたというのはありますか?

矢作:そうですね。違うんだというのはわかる。その違いは、何か折り合いがつくものかというと、折り合いがつかないものだと直感的にわかります。ですからそこはもう切り分けるわけです。「言っても通じない」という意味ですけどね。

—— それってそれこそ歴史の偉人であったりとかいろいろな結果を出されてきた方に結構共通するエピソードというか。

矢作:どうですかね。それはちょっと。そういうつもりで見てないので。

—— 先生の学び場に来られる方はそういったご自身の「魂の癖」であったり「自分を知る」学び中の方々が多いと思うのですけど、「共育の場」をどのように先生はデザインされているのでしょうか?

矢作:難しいですよね、ある程度それは手探りですよね。

—— 手探りをしてらっしゃる中で喜びであったりとか「あちゃー、やっちゃった!!」

みたいなことはありますか?

矢作:そうですね。喜怒哀楽というのがもうあんまりないので、単純にこうした方がよいのかな、また変えてみようというくらいでしょうかね。

—— 数学とか物理の学者ではないですけど、思考の観点としてはまさにそういうジャンルでしょうか?

矢作:数学とか物理の本当の天与の才能のある人というのは、見ているとやっぱり違うように見受けますね。まあ、めったにいませんけど。

—— そういった方とお会いになられた時、違いはどういった部分に感じますか?

矢作:やっぱり、いい意味での「ただ生きているだけ」という感じですよね。

—— そのままのご自身の素材で生きてらっしゃるだけという。

矢作:そうなんだと思いますけどね。

—— 何かになろうとかいうのは。

矢作:いやいやいや、ああいうレベルになると全く次元が違いますね。例えば、そこらあたりの何とかの勉強をするからああいうレベルになるかって言っても100%無理です。

—— 先生の中ではそういうふうに見て、結論が出てらっしゃって。

矢作:わかっちゃいますよ、そんなものね。

—— 寿命が100年の時代とはいえ、今世的な現実では違うと考えた方がよいというわけですね。

矢作:そうですね。例えば、我々に空を飛べと言っても無理というのは100%わかるじゃないですか、そんなような感じでしょうかね。

—— そのレベルでということですね。なるほど。面白いですね。

(インタビュアー・有本匡男)

H30年3月仙丈ケ岳(矢作直樹先生撮影)

2018年5月2日(更新日:2019年12月21日)

目覚めること、感謝

第1回に続き今回も、矢作直樹さんにお願いしています。

連続3回の掲載の1回目は、ご自身の体験も交えながら「自分を知ること」等について語ってくださいました。

2回目となる今回は目覚めることや感謝等についてです。

—— 矢作先生ご自身の今後のビジョンというか、今の活動からさらにこういったことをやっていこうということは何かありますか?

矢作:そうですね。ゴールというのはたぶん設定が必要なくて、方向性としてその方向にやっていって、あとはなるにまかせるで、たぶんなるようになっていくんじゃないかなと感じています。

—— その方向性をどういう風に考えていますか?

矢作:やっぱり目覚める人がある一定数どんどん増えてくれば、ある時から変化の速度が速くなると思っています。

—— 先生が見てらっしゃって目覚められたなーという変化を感じられるような具体例はあったりしますか?

矢作:いろいろありますよね。元々からそういう魂の人もいれば、努力して機会とともに変わっていく人もいますね。

—— それは時代的に昔は理解できなかったであろうことが変わってきたということですか?

矢作:さすがに今どき例えばこれだけ多次元世界というのが量子論的にある程度示唆される中で、まさかそれを否定する、もちろん理解できないためにわからないという人は多々いるとは思うのですけれども、いわゆる悪魔の証明じゃないですけど、無いことの証明はできませんので、あんまりそういうところで突っ張ってもしょうがないと、人は気づくのではないでしょうか。

—— そのあたりが先生が観てきた中ではどんどん変わってきたと。

矢作:そうですね、例えば東日本大震災の意味なんかがわからないと、亡くなった人に申し訳ないですよね。

—— 先生が大切にしている言葉はありますか?

矢作:「感謝」ですね。それから「足るを知る」「明鏡止水」とか「虚心坦懐」。あと「寛容」とか「調和」とか。みんな日本人のこころですね。もちろん「慈悲」も。

—— なるほど。

矢作:「感謝」と言った場合にいろいろ取り方はあるでしょうけど、「自分への感謝もとても大事ですよ」とやっぱり言いたいですね。自分ということは結局すべてということになるのでね。医療をやっていると、不調ってそこが足りないから出てくるんですが、意外とその単純なことがわかってない人が多いということにいろいろな局面で知らされるんですよ。だから家庭とか学校での基本として、それこそそういうことには共育が必要なのかもしれませんね。

—— 非常に面白いですね。そう思われた過程って「この状況がよろしくないから変えてやろう」みたいなある種の怒りの感情があるのかなと・・・

矢作:いえ、怒りはないですね。むしろそういう感覚とちょっと違ってですね、よりよくというのが正直な感覚です。今を否定してそこから立つわけでは決してなくて、結局今だっておそらくずっと魂が進化したところからみれば野蛮人の世界ですからね。たぶんおそらくどなたもそうだと思うのですけど、別に何か相対的に周りがどうだからこうだからという話じゃないということになるんじゃないかなと思います。

—— 面白いですね。先生の場合は、元からそうだったものをそのままやって周りの人にも気づいてもらうというような、まさに無言で体現してらっしゃるタイプ。僕はこのインタビューは「共育」という観点で読まれる方にほんといい気づきになるのではないかと思いました。というのも、みなさんが何かになろうとして「私にはそういう劇的な体験はなかったからなれないと思う」というような話は結構よくあるので。

矢作:確かに聞きますね。ただやっぱりそれは、おそらく自分に向き合ってないからだと思いますよ。難しく考えると難しいかも知れないけど、単純に考えればね、例えば何か本当にわくわくするとか理屈抜きの感覚で、それを感情だから直感とは違うと言う人もいるようですけれども、そんな難しいものじゃないですよ。ひとつ例えをあげると、兄弟でもおそらく肉体的なDNAは近いはずなのに性格は全く違う、あるいは学校のようなもっと多くの人がいるところを見れば多様性ってもっと極端でしょ。そういうのを見た時にたぶん気づくはずですよね。「何でこれだけ違うんだ」って。ただそれは別に何か劣っているとか優れているとかという意味でなくて、みんな役割分担なわけです。極端に言えば、生まれて来ずに死産する子だって大きなミッションを持っているわけですね。だからその役割とは何だろうって考えていけば、気づくはずですけど、やっぱりそこで思考が止まる場合が多いようですね。それがある意味気の毒な感じがします。嘆き悲しむのなんか見ちゃうとね。

—— 今の現状なのかな、と思うところはありますね。ところで先生はすごく感情的になったりとか自分が自分にびっくりするような経験ってあったりするのですか?

矢作:いろいろあります。例えば自分と行動規範が極端に違う人に対して「しょうがないな」と理性で思ている部分と感情でやっぱり「このバカ」という部分ってありますよ。今はもう随分減りましたけど、例えばですね、自分の価値観を強く押し出す人たち、メディアもそうだしいろんな団体とか宗教者もそうでしょうけど、そういう者に対して二面的な感覚ってありますね。二面的っていうのは、理性ではしょうがない人たちだと思うけれども、感覚的には、怒りというのとはちょっと違うな、、、何で気づかないんだろうというような意味での残念さというのですかね。

—— 残念さですか。「ちょっと悲しいなー」みたいな、「もったいないなー」というのでしょうかね。

矢作:せっかくなのにね・・・。次回に持ち越しちゃうんでね。

—— 面白いです。医療者としての先生自体も客観的に見ていらっしゃったのかなと思うのですが、そのあたりはいかがですか?

矢作:そうですね。一言で言うと、やっぱりいい医者ではなかった。

—— いわゆる世間的な意味で?

矢作:じゃなくて、自分自身が医療を本当の意味で天職だと思えることはなかったのですよ。義務感だけでやっていた。良心を裏切るとまでは言わないけれども、やっぱり本当の人生を生きていなかったですよ。

—— それを経て今の先生の活動があると。

矢作:医療から足を洗って本当にほっとしました。逆を言えば、おととしまでの36年間は、無駄とは言いませんけども、ある意味での修行でしたね。何か尊いという意味の修行じゃなくて、自分を欺いていたことへの見返りでしょうね。

—— 先生がそれに気づくための期間。

矢作:そうですね。もちろん振り返る必要はないので、そこには後悔はないですけども、迂遠ではありましたよね。

—— なるほど。

矢作:それも全部仕組まれていることなんでしょうけどね。

—— まさに哲学者なのかなと思います。

矢作:ただ哲学者と違うのは、考えているわけではないということですね。

—— 哲学したわけではなくて、元々知ってらしたということですかね。

矢作:知っていたかどうかはちょっとわからないですけど。

—— いわゆる哲学者の場合、探求して価値観との違いというものをある種のカタルシスの中で自分の中に入れていかないといけない。納得の作業の中での苦しみってすごいおありだと思うのです。

矢作:そうですね、職業としてやってるとね。

—— そこで哲学者は孤独だと言うんですけど、先生の中にはそういった孤独感とか寂しさみたいなものも・・・

矢作:そういうのはないです。ともかく聞かれてよくわかることは、何にも考えていないことですね。

—— 何にも考えていないことの効用って、客観的に見て先生的にはどういうふうに・・・

矢作:そうですね、それさえも考えないですね。

—— 言語化っていうのはすらすらできた感じですか、本読んだりとか。

矢作:いや、やっぱり難しいですよね、言語化は難しいですね。

—— でも先生の文章ってとってもわかりやすいです。

矢作:まあ一応努力はしていますんで。(笑)

—— そのいわゆるコントロール感とか押し付け感のない先生の文章って、やっぱりエネルギー的にすごく感じますね。

矢作:そういうのってたぶん元々の役割の違いだと思います。(笑)

(インタビュアー・有本匡男)

H29年12月北岳から続く池山吊尾根(矢作直樹先生撮影)

2018年5月16日(更新日:2019年12月21日)

発達障害と共育のあり方

前回に続き、矢作直樹さんにお願いしています。

矢作さんへのインタビューは連続3回にわたり掲載され、1回目と2回目の主な内容は以下の通りです。

 1回目:自分を知ることについて
 2回目:目覚めることや感謝

この最終回では、発達障害と共育のあり方などについて語ってくださいました。

—— 「21世紀共育ラボ」ではひとつ発達障害に関わることを活動としてあげさせていただいています。

矢作:発達障害っていうのは比較的新しい言葉ですね。発達障害を昔はどういうふうに捉えていたかというと、変わった子だと。その変わった子の中に優秀な子もいれば逆な子もいた。発達障害は魂的に見れば、地球での転生の経験が少ないというふうに考えたらわかりやすいと思います。全く癖が違うのですね。例えば現実社会的にうまくいかない人もたくさんいるわけだけど、例えば極端なのは、感情があまりないとかいろいろ欲がないとか、いろんなパターンがありますけど、それはそういうもんだというふうに周りが気づいて受け入れてあげればいいと思いますね。

—— たぶん個性という価値としてはフラットなのですけど、社会に合うかどうかという時に障害という言葉が使われてしまう。今の社会から見た時に、その個性は個性ですけど、ただそれでやっぱり苦しんでいる方って現実にはおられる中で、自分が自分としてそのままいながら社会の多様性の中でどのように生きていくかのひとつの指針として先生のこのメッセージというのは・・・

矢作:あのですね、重要なことは強いて言うと、自分の場合はなぜ幸いだったかと言うと親がそういうことを価値付けしなかったのです。つまり数の中に真理があるわけではないということを言っていました。

 だから今、発達障害というラベルを貼ることによって生じている問題というのを見ると、やっぱり親がそれをよく理解できないために、結局親が子どもに言うかどうかは別にして、何かネガティブに捉えている部分があって、それは子どもにすぐ伝わるので、子どもも自分が悪いのかなというふうに感じてしまっていると思います。

 社会一般の規範を守ることと、個性を押さえつけることは全く違うので、そこのところは親にも気づいて欲しいしやっぱり注意がいると思います。何か具体的に悪いことを、悪いっていうのは、規範から外れるという意味での悪いですけど、そうでない限りは、個性としてあるいは多様性のひとつとして受け入れることが重要だと思います。あるがままに受け入れることがね。

—— これからのたぶん人類的な大きな意味でのある種の目的というか課題なのかなと感じています。

矢作:そうですね、だから強いて言えば、それが親に伝わるといいですよね。

—— 先生が以前、適応しずらい子どもがみな目覚めるとか一気に何か変化が起きるようなものと関わっているのではないかというニュアンスのことをおっしゃったと思うのですが、そのあたりのことをできればもう少しお聞きしたいと思います。

矢作:ちょっと例えが正確でなくなってしまいますが、ある一定の温度の水がたくさんあっても熱い水にはならないので、量の問題ではないということなんですね。質が量を変えていくという部分もあって、それが今とても大事です。

 民主主義というやり方は人類がたどり着いた現状で、よいと信じられている社会の仕組みですけど、民主主義は結局数の原理なので、平時に普通にやっていく分にはそれで足りるのでしょうけど、例えば変化が必要な時、天変地異の時もそうでしょうし、社会が変わっていかないといけない時にはやっぱり無理があって、そういう時に特殊なというか他から自分たちを見ることができるような魂がある数必要になってくるのでしょう。具体的に言うと、天動説的な思考というのが今の人類の大多数にあってそれが社会を作っているわけです。ということは逆に言うと、真理が見えなくなる可能性も多々あって、現実にそうですけれど、それを超えるためには同じ地平の人が数だけ増えても無理なんですよ。だから外からというか、全く次元の違う意識が社会の中に必要になってくるわけです。たぶん森羅万象というか神が今そうされているのでしょうね。この人類の歴史も前の文明のように壊れてしまっては困るんでね。人間ってそういう意味では愚かで学ばないですよね。

—— それでありながらも「じゃぁ学べよ」という関わり方をされないところに先生はおられるということですね。

矢作:それがやっぱりこの世にいる意味なんでね。自由意志で獲得していることとか。

—— そういうことですか。邪魔をしないということですね。そのスタンスというのは「共育」共に育つという上で非常に大事かなと思います。

矢作:そうですね。

—— 「待つ」であったりとか「そのまま受け入れる」「受容」とかいろいろなキーワードが含まれている感じだと思います。 最後に、キャッチフレーズをご自身につけるとしたら何になりますか?

矢作:『考えない人』ですね。

—— なるほど。ありがとうございました。

(インタビュアー・有本匡男)

H30年3月仙塩尾根(矢作先生撮影)