澤野新一朗(さわのしんいちろう)
ハーモグラファー、ネイチャーサウンドクリエイター、フラワーエッセンスプロデューサー、南アフリカ共和国政府・観光大使
東京都杉並区出身
日本大学芸術学部卒業
4000種類以上の野生の花々が咲き広がる地球上最大の植物の宝庫、南アフリカ共和国 ナマクアランドの撮影取材をライフワークとして、1996年以来現在まで毎年出かけている。今までに世界80ヶ国以上を訪れている。
澤野新一朗公式ウェブサイト http://shinsawano.com/
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2018年6月23日(更新日:2019年12月21日)
南アフリカ共和国の大自然
今回は澤野新一朗さんにお願いいたします。澤野さんへのインタビューはこれから隔週で3回に渡って掲載されます。
—— 今日は澤野さんに「共育者」の観点からまず普段どんなことをされていらっしゃるか伺えますか?
澤野:肩書きは写真家・フォトグラファーです。主に自然を撮影していますが、人物を撮影したりオールラウンドに撮影しています。もともと大学では写真学科でジャーナリズム専攻でした。ですから卒業してすぐ報道の方に携わりました。けれども、日本でメディア業界に働いてジャーナリズムの限界を感じてしまいました。白けちゃったのです。
ひとつは、上の権力に対して制限されることを実感したのです。ある出版社で写真部門にいて、外部からスクープをしてくれないかと言われた時に、写真部長に相談したら、「それは社内のトップが繋がっているからできない」と言われたのです。ジャーナリズムというと正義心の中で悪を暴くというか、メディアというのはそういうものかと思っていたのですが、必ずしもそうでないと感じたのです。
それと、オフタイムの時に街中を見ていても、何かここで事件や事故が起きないだろうかというように無意識のうちに世の中を見てしまう、そういうのに嫌気がさしたというのがあります。
—— それは何年位経った時でしたか?
澤野:半年で辞めました。そういうことがありまして、その後フリーでいろいろ仕事をやりながら、JICA国際協力機構のプロジェクトでアフリカ南部のマラウィという国の政府観光局に写真部門を設立する仕事のために2年間滞在しました。それが僕のこれから出てくるアフリカの最初のきっかけになったのです。
—— アフリカにそこから縁ができて、そして今に。
澤野:今、ライフワークとして撮影しながら発表しているのが、地球上で最大と言われる野生植物の宝庫、場所は南アフリカ共和国のケープ地方、西ケープ、北ケープですね。そこの花園に出遭って、そこのエネルギーを伝えるというのがライフワークのテーマです。
—— この世とは思えないようなお花畑、拝見しました。
澤野:今から22年前の1996年に僕がその場所を日本で最初に紹介しました。アフリカに初めて行ったのはもっと前、30年以上前です。グラフ雑誌とかTVに出演したり、講演会をやったりしていると、日本人はお花が好きですので「是非行きたい」「どうしたら行けるのですか」とか「ツアーを組んでくれませんか」というリクエストがかなりありまして、2年後の1998年に初めて日本からその花園を訪れるツアーをオーガナイズしました。
以来昨年まで、今年も催行しますが、通算で22回位、ほとんど毎年やっています。だいたい10〜15人位お連れしています。初回の1998年から感じていたのですけれども、訪れた人がみんな子どもに還ったようにワクワク元気になってしまう。若返ってしまうのです。
—— わー、すごい!私も行きたい。
澤野:地平線まで咲き広がる花園に出遭って歩いたりすることもありますし、夜空の星の素晴らしさとか、アフリカの大地の持つエネルギーとか、それから意外にも食べるものがすごく美味しいのですよ。そういうことをからだで味わってしまうと、都会の人たちが持っているストレスとかこころの病とかが全部アースされるような、そういう場だと信じています。
僕は写真が仕事ですので、写真としてこの日本に帰国して伝える、例えば印刷物にしたり、写真展として発表したり、あるいは今だとインターネットとか、そういった伝え方を最初は思いました。ところが現地は、自然音がすごいのです。花園には鳥の鳴き声とか夕方になるとカエルが鳴いたり川の流れとか、そういう自然界の音も持って帰ってきたいと思いつきました。
—— CDを出してらっしゃいますね。
澤野:それは20年位前からなのですが、あるサウンドクリエイターと出会って相談したのです。「いい音を録りたいというよりも現地の気配を録りたい」と言ったら、「澤野さん、とっておきの機械がありますよ」と。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、昔はカセットテープの次の世代のものとしてプロ用の録音機器として使われていたDAT (Digital Audio Tape)というものでした。なぜそれを使うかと言うと、コンパクトディスクCDよりも音域が広かったのです。それをお借りしてサウンドを録ってきてCDを作り始めて今に至っています。
今はDSDフォーマットという録音形式がありハイレゾというのが流行(はや)りになっていますけれども、DSDフォーマットは人間の可聴域を遥かに超えた音まで収録できるので、その録音機を使って収録して、それを編集してCDとして販売しています。
コンパクトディスクはソニーとオランダ・フィリップス社が共同開発したのですが、人間の耳は上の音は22キロヘルツ以上、下の音は20ヘルツ以下は聞こえないだろうとしてカットしているのです。その理論に基づいてコンパクトディスクという形のCD1枚に収めてしまっている。厳密には、確かに大人の耳では14,000ヘルツを超えるとヘッドホンでも殆ど聞こえないのです。小さい子どもでも17,000ヘルツ、それ以上聴こえ難いのです。ところがどうも人は5万ヘルツ位まで感じているのではないかと言われているのです。
—— 耳で聞くのではなく、感じているのですね。
澤野:医学的に、例えば光とか色とか音は、耳や目だけでなくて、この皮膚というものが感じ取っていると説明できていますね。そういう意味で、音も耳で聞くのでなくバイブレーションとして体が感じているのではないかと思います。実は、日本オーディオ協会のメンバーになりましたので、音の専門家とこれから交流する予定です。
なぜハイレゾが今話題になっているかと言うと、ヘッドホンでもスピーカーでも5万ヘルツ、良い物では10万ヘルツ位まで再生できるスピーカーがありますが、同じ音を聞かせてもコンパクトディスクの音とハイレゾの音では音の厚みが違うのです。メッシュの細かさ、それが聞き比べると明らかに違うのです。例えば、スマホとかYouTubeとか、AppleでiTunesで配信しているのはMP3というコンパクトディスクよりももっと圧縮しているものです。そういう音・音楽とハイレゾを聴き比べると明らかに違います。MP3の音は平べったい感じです。それがハイレゾで聴くと、何とも言えない立体感と奥行き感、そういうのが出てきます。
もうひとつ、写真として僕の名刺にも使っているのですが、「ピンホール」という特殊な撮り方をしています。レンズを使わずに写真を撮るという昔の針穴写真です。
なぜそんなことをやるかと言うと、ピンホールに関心を持って撮り始めて15年以上経つのですが、カメラのレンズというのはほとんどがガラスでできています。今のデジタルカメラではカラーバランスという機能があるのですが、それはイメージセンサーでキャッチしたデータを人間の見た目、可視光線に近づけるように処理しているのです。ところが、フィルムであろうと今のイメージセンサーであっても可視光線よりもはるかに広い波長域まで実は感じているのです。赤外線とか紫外線とか。人間が見えている範囲はすごく狭いのでわざわざ人間の目には見えない光は全部省いているのです。ところが、今言ったピンホールというのは極小さな穴ですので、外界の光や太陽の光の成分を直接イメージセンサーに届けているのです。
—— 選別していないのですね。
澤野:はい。そうやってできる限りフィルムなりイメージセンサーが取り込める色域というか波長域、それも取り入れたいと、できればそれを再生したいという願いがあります。
—— 今までだったら役に立たないと切り捨てられていた部分に、何かあるということなのですね。
澤野:そうなのです。ちょっと話が前後しますが、僕は大学生の時にある女性経営者とお会いしたことがありました。カトリックの信者の方で、彼女と会った時に何を勉強しているか聞かれて、写真を勉強していることを伝えたところ、「写真を勉強しているのだったら、目に見えないものを写すように勉強したら?!」と言われた訳です。「えっ?!」と言ったら「『星の王子さま』読んだことある?」と聞かれ、「読んだことない」と言ったら、「ぜひ読んでごらんなさい。星の王子さまも言っているじゃない、一番大切なものは目に見えないって」と。聖書の中にもあるんですよね。それが僕の今に至る写真に対する考え方の通奏低音としてあります。目に見えないものを写す。本当に重要なもの真実は目に見えない。それが根底にあるのです。
—— すごい含蓄があります。
澤野:だから音もそうです。人間が知っている感じている領域って非常に狭いということがわかったのです。
もうひとつがフラワーエッセンス、またはフラワーレメディとも言いますけど、それはアロマセラピーのように花の香りを利用してお部屋に焚いたりオイルに混ぜてマッサージするとかリラクゼーションに使うものとは別のものです。
最初に出会ったのは22、3年前、まだアロマセラピーという言葉も一般に皆さん知らない頃でした。たまたま世田谷のオーガニックの店にエッセンシャルオイルと一緒にエドワード・バッチ博士のフラワーレメディが置いてありました。翻訳されたバッチ博士の本も売っていたので読んでみて、こういうこともあり得るだろうなと自分の中で思っていました。
1996年、当時5歳と3歳の二人の息子も連れて家族で南アフリカに行きました。それでケープタウンのナチュラルショップに行ったところ、南アフリカ製のフラワーエッッセンスが100種類以上あったのです。
—— その当時から?
澤野:はい。バッチ博士のフラワーレメディの説明を少ししますと、医師であるエドワード・バッチ博士が実際生きていた時代は第二次世界大戦前1930年代で、現代風にフラワーエッセンスを体系化したのはバッチ博士と言われています。今では世界中、オーストラリア、ヒマラヤ、アラスカとか北米、南米、日本でもフラワーエッセンスとして何千種類と作られています。
そういう中で、南アフリカにもサウス・アフリカン・フラワー・アンド・ジェム・エッセンス(The South African Flower & Gem Essences)と言うブランドがすでにありました。
—— ジェム、宝石・石を使ったものですね。
澤野:はい。そこのプロデューサーの女性に連絡を取って会いに行ったところ、彼女は、僕が撮影している北ケープ州の通称ナマクアランドで野生の花からエッセンスを採ったことはないという話でした。
話は最初に戻りますが、僕が訪れている場所を地球上最大の花園と言いましたが、4.000種類以上もの花が一度に咲くと言われています。
—— すごいですね。
澤野:どんな花々かと言うと、日本でも親しんでいるマーガレット、ディジー、グラジオラス、フリージア、ガザニア、カタバミ、アイリスとか、それから花ではないですけど百数十種類のアロエがあります。一般的に、アロエベラ、キザチアロエとかが日本では知られていますが、その他の多肉植物の宝庫でもあります。
1996年から毎年欠かさず現地に行っていますが毎年花の表情が違います。
—— お花の種類は同じでも表情が違う。
澤野:そうです。日本では、お花畑と言うと北海道の美瑛とか富良野とかフラワーワールドのようなイメージがありますが、ほとんどの場所は人間が管理・世話しています。でも南アフリカの花園の場合は、その年の雨・気温しだいなので、同じ場所に毎年立ってもお花のグラデーションが違っています。
—— その年に合ったものが野生で毎年出て来るのですね。
澤野:そうです。二度と同じ風景が見られないのです。そこで『神々の花園』という商標を取って名づけています。
—— お写真を拝見しても、とても神々しいです。
澤野:まるで「幻の花園」のようで、年によって自分の開花条件が来るまでじっと寝ているのです。タイムカプセルのように。
—— すごいですね。毎年咲かなくても自分の時が来たらわかってぱっと出てくるのですね。
澤野:非常に密集しているから自然交配が激しいのです。絶滅危惧種として登録され地球上でここにしか生息していない植物もあれば、未だに全ての植物を網羅している図鑑がない。また、世界中で普及している園芸品種のルーツでもあるのです。もちろん花園に入れることもありますが、普段日本人が想像している規模より遥かに広いんです。そして、その花の多くが皆さんが親しんでいる園芸植物のルーツでもあるんです。
—— そういうところから持ってきたものが今私たちが花屋で買っているお花だったりするのですね。
澤野:そうです。品種改良したりしてね。
—— だから『神々の』なんですね。それこそ神様が創った一番のおおもと。
澤野:そういうおとぎ話があるのです。昔々、天使が腰に種が入った袋をぶら下げて空を飛んでいました。いつのまにかに袋に穴が空いて種はこぼれこぼれて、荒野が花園になりました、と。
—— 素敵ですね。
澤野:それで話を戻しますが、フラワーエッセンスを実際に花園の中で作って徐々に日本に持って帰ってきました。
—— バッチさんからのヒントを得て、澤野さんはそこでエッセンスを採ろうというお考えになったのですね。
澤野:そうです。バッチフラワーレメディの場合は普通、サンメソッド法と言って、一番太陽光線が強い時に綺麗なガラスの器とかクリスタルのボールにミネラルウォーターを満たして花を摘んで浮かします。それを光に当てて、花を捨て、そこに保存液としてブランデーを入れて、マザーエッセンス(母液)を作ります。だけれども、このナマクアランドには貴重なお花、レッドデータと言いますが、いわゆる絶滅危惧種に登録されている植物種もあるわけです。できるだけ花を摘みたくなかった。それで、花弁の中に水が入るタイプの花でしたら、持ってきたミネラルウォーターを一輪一輪の花弁の中に入れて、しばらく置いて、「ありがとう」と言ってその水をまた集めて作ったのが僕のマザーエッセンスです。
—— まさに『神々の花園』のエッセンスが凝縮されているイメージが湧いてきます。次回『神々の花園』のエッセンスをどのように伝えていらっしゃるのかを伺うのが楽しみです。
(インタビュアー・長岡 純)
2018年7月8日(更新日:2019年12月21日)
プロジェクトへの思い
今回も澤野 新一朗さんにお願いしています。連続3回の掲載の1回目では、南アフリカ共和国の大自然とそのエネルギーを伝えるご自身のライフワークのテーマ等について語ってくださいました。2回目となる今回は、ご自身のプロジェクトやその思い等についてです。
—— フラワーレメディを応用して写真・映像や音、香りをどのようにお使いになっていらっしゃるかお話していただけますか?
澤野:普通フラワーエッセンスというのは、色々な種類があるストックボトルから選び出してユーザーさん(お客様)に使うのですが、僕の場合は、エッセンスとして採った花や環境、例えば満月、岩山、星なども写真や動画として撮り、その動画の光を参加者に浴びてもらっています。 どういうことが起きるかと言いますと、前回お話ししたように、光や色というものも目からだけではなく、音と同じように皮膚自体が吸収しています。医学的にも証明されています。薬事法もありますので効果とは言いませんが、大きく変化を感じたのは、今から10年ほど前のことです。こころを病んでいてずっと引きこもっていた男性から電話で相談したいことがあると言うので、那須のスタジオに来てもらいました。彼のお話を聞いたあとに、実は南アフリカからこういう花の光を持って帰ってきているけど浴びてみますかと聞いてみて、30分くらい何十種類かの光を浴びてもらいました。すると、元気になられて、あとから連絡がきたところ彼のお話から、何かしら光を浴びるということが心身に影響を与え変化が起こることをその時に実感できました。 やはり現代人はどうしても人工光の下にいることが多いです。例えば化粧品会社が紫外線に当たるのは有害と言いますが、実際人間の肉体を作るためにはある程度紫外線・太陽光線も必要なわけです。そういう自然界の光が不足しているのではないかと感じていた中で、デジタルのツール、パソコンやビデオプロジェクターを通して光を浴びてもその男性のように何かしら心身に影響するということは、自然界の情報がデジタルツールを使っても載っていると感じたのです。 写真展でも全身で感じてもらう写真展、単に展示してある写真を観てもらうだけではなく、作品を撮った場所の自然界の音、光というものをスペースの中に充満させて、現地の気配を再現させることを今やっています。
—— それこそ目に見えない気配ですね。
澤野:それを見るとか理解するではなくて、感じてもらうということをやっています。
—— 本人がそんな気配を意識しなくてもどこかは受け取っているわけですよね。
澤野:そうです。そこの空間はなんか違うなとか。本来人間は、こういう現代的な生活をする前、自然と接して生きていた時代は、みんな感じていたと思います。第六感といいますか、五感が鋭かったと。そういうものは壊れたのではなく、今は眠っているあるいは忘れてしまっていると思います。だからそれを蘇らせ、思い出す一助になればと思います。 光や色・音がどのように心身に影響を与えているのか、その研究が残念なことに日本では非常に遅れています。現代医療だけに頼らず、人間が本来内在しているホメオスタシス(自然治癒力)を喚起させる役目に少しでもなれたらと願っています。
—— 今日お話してくださったいろいろな素敵なことを使って、これから「共育」という観点でどのようなことをされていこうと思ってらっしゃるのですか?
澤野:普通の「教育」、今までの学校教育というのは、これは理科これは社会これは数学とか体系化されています。僕はアフリカに行って花だけではなく人間を撮ったりしますけれども、そういう写真や音楽を紹介するには、社会的なことやサイエンス、数学的なこと、宇宙のリズムとか、そういったものが一つのテーマに対していろいろと多角的に入ってきます。そういうのをこちらから教えるだけではなく一緒に感じてくれてアハーっと思ってくれたことをまた僕自身がフィードバックしてそこに喜びを感じるとか。。。
—— 相手が感じたり、変わっていく姿をご覧になって、それが澤野さんの喜びでもある。
澤野:「共育」は共に育む、育てると書きますけど、僕のは「きょう」の字が「響く」という字かもしれません。「響育」。他のところで、「共有」というのは共に有ると書きますが、「響有」という響き有るという字を使ったことがあるのです。 今回「21世紀共育ラボ」ということで語源を調べてみました。明らかに「教育」というのは一方通行的で「教わる」とか「教える」。共という字の「共育」の場合は、二人いる中で、共有して何かをするということ。響くという字の「響育」の場合は、食が関わっていたのです。食卓で向かい合って楽しむというのが、字の中に入っていたのです。下が「音」。音は日が立つと書きます。そういうのが文字の組み合わせの中に入っていて、要するに共有共鳴響き合うということがあるのです。 そういうことで、僕が感じる「共育」というのは、単に一方通行に教えるのではなくて、伝えたことに対してどんなレスポンス(反応・反響)が返ってくるかという循環です。僕自身も教わっているような、そういうポジティブな循環がお互いに生まれてくるのを感じています。
—— それを実現するために何か今後のプロジェクトとか、お考えはありますか?
澤野:僕はまずドクターと研究を組みたい。以前ある研究室でフラワーエッセンスのセッション中に脈と自律神経を、光を浴びる前と後で測定して、コンピューターで全部集計してくれたのです。そのとき先生から、落ち込んだ気持ちを明らかに中庸にもってくる、逆に落ち着かないハイな気持ちを落ち着かせる、そういうのがこの光の中にあるのではないかというコメントをいただいたが、それ以降やってないのです。僕はやはり今の科学でエビデンスとして証明できるように医師と関わりデータを取りたいです。具体的にプロジェクトというのは、これからいろいろな人に出会っていく中でできていくのではないかと思っています。
—— やはり出会いを通して、誰かと響き合うということですかね。
澤野:そうです。今これだけ混乱しているというか激変の時代だからこそ、今までにないもの、今まであったもののただの寄せ集めではないものが生まれてくる可能性がすごくあると思います。
—— わくわくですね。
澤野:そうです。わくわくすること。花園に行くとみなさん子どもに還ったようにわくわくするわけです。大人気ないとか何とかいうものではなく、嬉々として年齢とかを超えたものです。あえて言えば、見えないもの聞こえないものは無いのではない。あるのだ、ということですね。無いから否定するのではなくて、見えないところに何かある。聴こえないところに何かある。人間の今までの知識とか何かを超えたものというのがこれから重要になってくる。
—— 素敵ですね。それがこれからキーになってくる。
澤野:そう思います。別に過去を否定するものではない。例えば、僕が今取り組んでいるのは、世界で一番薄いという和紙、それに最先端のプリントをして、それにまた日本の伝統技である金箔やプラチナを貼るという、今までにない新しい写真の表現です。まずアメリカから発表していこうとしています。カッコいい言い方をしますと「トラディション・アンド・フューチャー」。今までの伝統的なものだけの表現方法だけではなく、新しいものと融合させて、さらに未来へつなげていくというものをやっていきたいと思います。
—— 過去も伝統も肯定した上での未来があるということですね。
澤野:そうです。僕は写真がスタートですが、写真というのは、真(まこと)を写すと書きますでしょ。真を写すと考えると、英語で言うフォトグラフィーとはニュアンスが違うと思っています。フォトグラフィーというのは、フォト(Photo)、単に写して、グラフ化する。写真というのは、真実を写すことなのです。コピー・オブ・トゥルース(copy of truth)。
—— そこに何かすごく深い東洋的なものを感じますね。
澤野:もっと精神性やアニミズムとか、写真というものが欧米から来たとき江戸末期の人が、写真を撮られるというのは魂を抜かれると思って怖がったことは、ある意味真実であると思います。
—— 澤野さんが大切にしている言葉あるいはモットーは何ですか?
澤野:一回生起(いっかいせいき)、一期一会と同じようなことですが、この時この瞬間に生まれるもの、それは何かというと、お互いの中から生まれる。一人ではなく相手がいる、その中に生まれてくるもの。でもその時、生まれて消えていってしまうかもしれない。
—— その場のライブのものですね。
澤野:ライブです。例えば寄席や語り部はCDで聞いてもダメなのです。聞き手との空気というか、「間(まあい)」から生まれてくるものがあり、徐々に変化しているわけです。それを大切にしたいです。
—— 素敵です。このお話もまさにそうですよね。ここでしか生まれなかった何かかもしれないですね。
澤野:それは過去にもあるわけでも未来にもない、でもここから新しい未来が生まれてくるわけです。それが一回生起と思います。
—— 今この瞬間に全てがありそこから未来が生まれること、心に留めておきたいと思います。
(インタビュアー・長岡 純)
2018年7月21日(更新日:2019年12月21日)
南方熊楠のこと
前回に続き、澤野 新一朗さんにお願いしています。澤野 新一朗さんへのインタビューは連続3回にわたり掲載され、1回目と2回目の主な内容は以下の通りです。
1回目:南アフリカ共和国の大自然とそのエネルギーを伝えるご自身のライフワークのテーマ等について
2回目:ご自身のプロジェクトやそこでの思い等について
この最終回では、南方熊楠氏と共育などについて語ってくださいました。
—— 今回の「共育」がテーマという時に、南方熊楠(みなかた くまぐす)のことをお話されていましたが、私も今日ちょうど国立科学博物館の「企画展 南方熊楠——100年早かった智の人——」を見てきました!
[企画展は2017年12月19日〜2018年3月4日に開催されていた(国立科学博物館)]
国立科学博物館ウェブサイト:https://www.kahaku.go.jp/event/2017/12kumagusu/
公益財団法人南方熊楠記念館ウェブサイト:http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp
澤野:「共育」と言うと、南方熊楠を思います。今なぜ熊楠が「100年早かった智の人」と言われるかと言うと、熊楠の研究調査資料はビックデータだと感じたのです。熊楠という人間に関していろいろと本は出ていますが、彼が研究したものはあまりにも大きく多岐に亘っていて、それに対しての研究はこの10年位の間に始まったばかりだそうです。それをいろいろな角度から引っ張り出すといろいろと出てくるというまさにビッグデータなんです。データベースなのですね。
—— 展示の最後のところに、熊楠の残したものは私たちが例えばグーグルで検索するデータの貯蔵庫のようなものだとありましたね。
澤野:そう、クマグル(Kumagle)と言うのですね(笑)。正面のところには、ロンドンで出会った高野山真言宗管長で、当時最高の学僧、土宜法竜(ときほうりゅう)に送った書簡の中にある、のちに「熊楠曼荼羅」と呼ばれるようになったものが展示してありました。熊楠は筆で書いたのですが、緑色のホログラムで作られていました。「熊楠曼荼羅」は実際は立体的で3Dを超えているというか、クラインの壷のようだと思います。メビウスの帯は表側を辿っていくといつの間にか裏側に行っていますが、それを三次元にしたようなクラインの壷は外側を辿っていくといつの間にか内側になっているのです。
—— あまりにも進みすぎてその当時の人には理解できなかったでしょうね。共育の観点からすると南方熊楠はどんな人でしょうか?
澤野:ひとつ言えることは、今の企業形態とか学問・アカデミックなものに人々は限界を感じているのだろうと思います。南方熊楠は、師も弟子も持たなかったそうです。独学で自分の興味あるものに従って研究・探求していたわけです。それは、粘菌生物学、変性菌、民俗学など非常に多岐に亘っている。熊楠がやっていたことは、現代ではビッグデータそのものと言えます。いろいろな切り口からそのビッグデータに入り込むと、芋づる式に出てくるのが熊楠なんです。民俗学、森羅万象、宇宙、植物、セクソロジー(性科学)、男色の研究もしていました、粘菌植物と男色の関係とか。彼の研究で知られる粘菌は、その動きが、今のホラクラシーではないですが、その時その時の環境の変化によって形態を変えていきます。粘菌は動物でも植物でもなく、環境がいい湿気がある時はアメーバのように動いて、それで栄養を摂りながら生き延びていくのです。YouTubeで粘菌の動きを見るとすごいです。微速度撮影の映像を見ると全体が脈打って呼吸しているみたいに動いていって、あるところまでくると今度は固まって胞子みたいな形になる。アメーバ的な細胞もあるし、またそれが合体するような生き物なんです。
—— まさにこれからの社会の在りようとも言われるホラクラシーのようですね。彼は見つけた資料を手当たり次第に筆で書き写しましたね。
澤野:南方熊楠は、一種のサバン症候群だったのかもしれません。
—— なぜそんなにデータを収集するのかという問いに対して熊楠は「これで自分は狂人になるのを防いでいる」と言っています。それをしないと癇癪を起こすし、頭がおかしくなってしまうと。
澤野:はい。彼は父親が商売に成功していて経済的に全く不便がなかったそうですが、18歳位で東大の予科に行って、その時の同窓生が夏目漱石や正岡子規。でも一年でやめて渡米してシアトル、フロリダ、それからロンドンに行って大英博物館の図書館に入り浸り、そこで何万ページも書き写したのです。ロンドンで出会ったのが、先ほど話した高野山真言宗管長で、ロンドンに滞在していた孫文とも親しかったといういきさつもあります。それから熊楠は地元和歌山の田辺市に戻り、熊野の森の中に入り込んで粘菌の研究を始めるわけです。自分自身が森になりきってその境地にならないとわからない、と。
—— 面白いですね。
澤野:十代から日記をずっと書き残しているけど、途中で彼は自分が人間でなくなるような気がして気が狂いそうになって、もののけ姫の世界みたいなものです。そうやって収集したコレクションはものすごく正確に記録してあり『Nature』にも発表しています。もともと地元では変わり者で変人だったけど全国的に知られたのは、昭和天皇が皇太子の時、また天皇になられてから田辺市に来られた時に、神島(かしま)という離れ小島で、南方熊楠はキャラメルの箱の中に標本を入れて献上したという有名な話があります。熊楠のすごさはこうして地元でも知られたというわけです。そして、彼が今でいう自然保護の「エコロジー」という言葉を使ったのが今から106年前だったと。
—— エコロジーと言っても、当時あまりに早すぎて理解されなかったでしょうね。
澤野:そうでしょうね。それから、明治末期に神社合祀に大反対したのが南方熊楠で、柳田國男とか有識者が賛同して政府に陳情したそうです。一町村一社を原則とする国の政策は、自然を破壊すると大反対した先駆者だったんですね。
—— 世間から変人と言われていた。
澤野:森にいる時は半分裸みたいな姿で平気です。でも人見知りが激しくて人が来る時は緊張してしまうのでお酒を飲まなくては会えなくて、わざわざ東京から柳田國男などが来た時は、飲み過ぎで会えなかったといいます。若い時は大ボラ吹きだったようです。
—— 本人は嘘をついているつもりはなくても周りからは「またか」と。常識から外れているように見える熊楠のような人の存在は、一方で古いものを変えてゆく力、何か新しい時代の扉を開ける鍵を持っているような気がします。
澤野:イギリスに居ながらもいわゆる西洋の科学者にはなりきれなかった。アルファベットで表現する西洋の科学者のアカデミックな考え方や構成には限界があると思います。熊楠のやっていたものはもっと次元を超えたものが入っていたと思うのです。彼が書いたメモ書きは一見すると支離滅裂です。でも解析して取り出して展示の中で、ここの部分とあの部分が紐付けられていると説明されていました。例えば虎についてのことだったら、世界中の虎についてのエピソードがバラバラに書いてあるんです。そういうぐちゃぐちゃに見えるビックデータのデータベースの中から文学とか生態学、動物学を取り出してくるわけですよ。
—— 平面的に見ると脈絡がないように見えるものが、実は多次元的な視点から見ると複雑につながり合っている。
澤野:そういうところで、時空を超えたもの、時間軸を超えたものが、熊楠曼荼羅についてのひとつの解釈だと思います。帰国してからも先の僧侶とずっと文通があって、それが僧侶のお寺から十数年前に発見されたそうです。
—— 彼は平面に書いたけど、(企画展では)これ(熊楠曼荼羅)を立体的に見るようにと書いてありましたね。
澤野:先程話したようにホログラムで作ってあるものが正面に展示してありました。熊楠に関する本は、地元の人が書くと熊楠への思い入れがあるから結構歪んでいたりプライベートなことを載せていないとかありますが、時代時代で著名な人も書いています。今は熊楠の光の部分も闇の部分も赤裸々に書いてありますね。39歳位でお寺の娘さんと結婚し、娘と息子がいる。娘は熊楠の資料をずっと保管してサポートしていますが、息子は精神障害があり十代のころから施設に預けられたんですね。あまり会ってなくて、自分の息子がいつ死んだかもわからないと。また人間の生態なども専門家といろいろと書簡でやりとりしていたようです。エピソードには大ボラ吹いているのがいくつもあるわけです。「俺は日本のゲスナー(スイスの博物学者・書誌学者)になる」という野心を持って海外に出ていったというのも書かれています。
—— 当時、熊楠は幸せではなかっただろうと思います。もし今熊楠がいたら「時代がようやく人類の遺産としてあなたの価値を見出しましたよ」と伝えたいですね。
澤野:いろいろと葛藤はあったと思います。自分としては未完成だったと、やってもやってもやりきれないという研究内容ですよね。弟が父の事業を引き継ぎ成功していて仕送りをしていましたが、その弟とうまくいかなくなりピタっと送金が止まってしまいました。否応無しに帰国するけど、熊楠は働いたことがないわけだし貧乏暮らしだったんです。奥さんも大変だったと思います。
—— 失望の中で亡くなっていったのかなと想像しながら、人間の一生の価値ってどこにあるのだろうと考えてしまいました。
澤野:確かにやり遂げきれなかった不完全燃焼のところはあったとしても自分のやりたいことはやり通してきたという、それは幸せだと僕は思います。レオナルド・ダ・ヴィンチみたいにすごい小さい文字で書きまくって、ノートに緻密に書き残していた。書くことが苦手な僕には羨ましい。そして日記では、奥さんに知られたくないことは英語とかドイツ語で書いてあり、『Nature』で発表するのも英語。『Nature』は昔はアマチュアの人たちの交流の場だった。手紙でやりとりしてお互いに質疑応答していたのが昔のやり方だったようです。ロンドンから帰ってからも海外の粘菌の専門家が4000種類位サンプルを送ってきたり、海外の人との交流がずっと続けてあったというのがすごいですね。
—— データベースという概念すらなかった100年以上前に、正体不明の大きな力に駆り立てられるようにして日本でアメリカでそしてイギリスで、生涯貪欲に記録し続けた博物学者の南方熊楠。その熊楠に対する澤野さんの熱い思いが伝わってきました。
熊楠はすでに亡くなってはいますが、共育者として澤野さんの心の中に生きているのですね。これからも心の中の熊楠と澤野さんは共に進化し続けることでしょう。これからのご活躍が楽しみです。
(インタビュアー・長岡 純)