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interview宮崎ますみさんインタビュー

宮崎ますみ(みやざきますみ)/シャンマタ

一般社団法人日印友好 シャンマタ・シッダ医学協会 設立代表理事

1968年愛知県生まれ。84年より女優として、舞台・映画・TV・ラジオなど幅広く活動。1995年 結婚を機に米国ロサンゼルスに居住。米国では二児の息子たちを育てながらYOGAに傾倒。帰国後の2005年、乳がんであることを公表。がん克服の後、自身の経験を通じて以前より興味のあった自然療法、代替療法に関心を深める。2007年よりヒプノセラピストとしての臨床実務と併せて、ホリスティックな医療の探究に取り組み、インドの古代タミルの叡智である「シッダ医学」に辿り着く。2023年 一般社団法人日印友好シャンマタ・シッダ医学協会を設立し、蓼科山の山麓に、真我探求をヴィジョンとした場「HOME」(長野県茅野市)を開設。長野県八ヶ岳の移住先では、自然の循環の中に身を置き、自然循環の中で生きるを実践。そこでは有機野菜、お米、ハーブなどの生産を行い、八ヶ岳と南インドを定期的に往復しながら、グラスルーツに日印の友好事業を行っている。

著書に、
「至福へのとびら」(2003年/飛鳥新社刊)
「ピュア・バランス」(2015年/ヒカルランド)
「いつでも自分を変えられる」(2016年/びぶれ文庫)

株式会社ヒプノウーマン 代表取締役
日本ヒプノセラピーアカデミー
Muruga Shan Matha Guru Kulam 代表 shanmathaji.com
日本ヒプノ赤ちゃん協会(Japan Hypnoakachan Institute) 代表・マスターインストラクター
米国催眠士協会(National Guild of Hypnotists) 認定 インストラクター
米国催眠療法協会(American Board of Hypnotherapy) 認定 インストラクター
国際催眠連盟(International Hypnosis Federation) 認定 インストラクター
Alchemy Institute of Hypnotherapy 認定インストラクター

2019年8月28日(更新日:2019年12月21日)

息子が私を育ててくれた

今回は、宮崎ますみさんにお願いいたします。

宮崎ますみさんは20代に芸能界でご活躍された後、結婚を機に1995年ロサンゼルスに転居、そこで出産も経験されました。次男の照土(あきと)さんには発達しょうがいがあります(自閉症、ADHD、LDと診断)。ますみさんは照土さんが小学2年生の時に帰国され、乳がん、離婚を経験。ヒプノセラピストとしてのお仕事のかたわら、2人の息子さんを育てて来られました。今回のインタビューでは宮崎さんが照土さんにお母さんとしてどのように寄り添って来られたかを語っていただきました。

インタビューはこれから隔週で3回に渡って連載されます。

18年間息子に育てられてきた私。やっと卒業できました。

—— 照土さんは現在、米国のコロンビアカレッジ・シカゴに在籍し、大好きな映像を学んでいらっしゃいますね。小学生の時に発達しょうがいと診断されましたが、高校生までそれを知らされずに育って来られたそうです。まず、照土さんがご自身のしょうがいのことを知った経緯をお聞かせください。

宮崎:「息子に発達しょうがいのことを言わないでいいんですか?」と照土がちっちゃい頃から通っていた発達支援センターの先生に何度か相談しました。でも、「大丈夫、言わなくていい」という回答だったんですよ。私は言った方がいいと思ったけど、結局言わずにずーっと来て、でも本人も高校に上がったあたりから、自分って普通じゃないのかなあとか、薄々わかっていて、ものすごく悶々としていたわけなんですね。高校卒業後、アートの大学に留学する準備のために外国語専門学校の芸術コースに入ったんです。私は照土が小中学校時代を過ごしたシュタイナー学校での8年間も、高校に入る時も、先生に「この子はこういうキャラクターで…」って資料も渡して伝えておいたんですね。で、専門学校でも、入学式の次の日に先生に手紙を書きました。照土のことで戸惑うといけないから。彼は幼少期に発達しょうがいと言われて、こんな風に育ってきましたと。今でもこういうところのコミュニケーションがちょっと難しいと思いますと、細かく書いた手紙を封筒に入れて、ちゃんと糊を付けずに、開いたまま「あーくん、これ明日担任の先生に渡しといて」って渡したんです。そしたら夜のうちに彼が読んじゃって、それで自分が『発達しょうがい』っていうことを知ったのです。

で翌日「僕あれ読んだよ。どうして今まで言ってくれなかったんだ」って言ったのです。

「なんで?」ってたずねたら、

「僕はね、今まで知らなかった。だから高校もそんなに努力してこなかった」と。

「それを知って今あなたどんな気持ちなの?」ほんとうは私、内心もうバクバクなんですけど、冷静を装ってね。そしたら、「最初は、まるでがん宣告を受けたみたいにショックで心臓発作で死にそうな気持ちになった」って。「でもね、僕はそれを聞いて良かった」って言うわけね。「それを聞いて、僕はもう頑張る。僕はずーっと照土のままなんだ。最後は笑って死にたいから、僕はこの僕を幸せにしたい。だからこれから僕は頑張る。努力する」って言ったの。そこから、つまり自分が発達しょうがいであることを受容した時から、彼の中でものすごいエネルギーが湧いて来たんです。ガガガガって脳が繋がったみたいに、彼は変わったの。英語力もそうでした。幼少期をアメリカで過ごし、高校3年間はインターナショナルスクールに行ってたけれど、英語はちびちびでした。でもしょうがいを受け入れたあとの1年たるやすごい!専門学校の先生方によると、学校に来なくなったり色々ある生徒の中でも一番模範的にトップを走って頑張ったのは照土だって。それで英語もグワンと伸びたし、ポートフォリオで作品作りをしたら凄いんです。結局その作品のおかげで今、奨学金で大学に行けてるんです。

—— さかのぼって照土さんがますみさんのお腹に宿るところからお話しいただけますか?

宮崎: 当時住んでいたロサンゼルスの自宅である朝、長男を寝かしつけていつものようにテラスで瞑想してましたら、白い光がポヨーンって遊びに来た感じがしたんです。え、なんだろうと思ってフォーカスしたら、次に生まれてくる子っていうのがわかったんですね。それがホヨホヨってしてて、「お母さんはいつでも準備できてますよ」とか言いながら(笑)どうぞお入りくださいってなんかこう子宮の扉を開けるイメージで誘ってみたんです。でもなかなかお腹の中に入らないんですね。で、あ、まだなのかなーと思っていたら、その白い光はヒュっと隠れるわけです。あれ?っと思って見るとまたヒュっと隠れるんです。遊んでるんですよ、キャッキャキャッキャしてるの。お兄ちゃんの時は鋭い電光石火の光が降りて来る感じだったんですけど、あー、次の子はこの地球をまるで遊びに来るような感覚で来る魂さんなんだ。非常に面白いキャラクターを持ってるんだなというのがもうわかったんですよ(笑)。あくまでもイメージの世界ですけれども(笑)。

—— ヒプノセラピストのますみさんらしいですね(笑)。

宮崎:はい。ほんとに祝福ですね。準備がいるっていうのがわかったんです。特に次の子を計画していたわけじゃないし、1人目で必死ですから。そこから半年以上が経って妊娠がわかって、照土が生まれました。

そういう経験をして、コミュニケーション、この顕在意識の言葉なんていうのは表層の上っ面であって、ほんとに子どもとの一番大事なコミュニケーションは魂と魂だと思うんですよ。その体験を最初からさせてもらいました。

—— ますみさんはお子さんにどういう風になってほしいという想いがあったのでしょうか?

宮崎:昔も今も変わらないのは、やっぱり魂に則って生きる人間に育ってほしいということですよね。

—— 魂に則るっていうのをもうちょっと具体的に教えていただいていいですか?

宮崎:私は、すべての子どもたちは Spirit 自体が種を持って生まれて来ていると思うんですね。誰かが植え付けるというよりも、その種を信頼する子育てかな。

—— 子どもの中にあるものを尊重するってことですね。

宮崎:そうですね。まだ種である時、どんな花を咲かせるかわからないですよね。いつ芽が出るのかもわからない。でもこのちいちゃなちいちゃな一粒の中に全部含まれている。どう育っていくかわかってますよね。植物が先生ですね。

—— だとしたらその種を信頼できるためにはお母さんの信じる力っていうものが大事になってきますよね。子どもにはこうなってほしいとか、親の想いが色々あったりしますでしょ?

宮崎:これね、やっぱり私がアメリカに移り住んでずっとインドヨガに傾倒してヨガ行者みたいな生活してて(笑)、その中で子育てしていたっていうのもあるんですね。やっぱりある種インド哲学みたいのががっつりあって、すべて自分がしていることなんて何一つないっていうのがあるわけですよ、風で木が揺れるのも、蝶々が目の前を飛ぶのも木の葉が舞うのも全部偶然ではない、全て御心が行っているっていうところがあるので、ましてや自分の子どもは自分の子どもではないっていうのがベースにありましたし…

—— それは天から授かった子どもということですか。

宮崎:そうですね。御心が行うことっていう意味ではそれを邪魔しないっていうか。その子の魂、その子の種がどう発芽していくかというその計画に則っていかにサポートできるか。だから私がこんな花を咲かせようって肥料あげてみたり遺伝子組み換えしてみたりとか(笑)しない。

—— 本来の方向に伸びられるよう陰からサポートすることが親の役目だということですね。

宮崎:そうです。だから読み取るだけですよ。

—— 読み取る?

宮崎:その子が何を持ってるか。だから星(読み)も時には必要なんだと思うんです。何を持って生まれて来たのか。カルマも含めてね。(注 インタビュー前の雑談時に、ますみさんはお子さんの特性を知るために占星術なども参考にされていると話されていた)。

子どもは日々サインを出すのだけど見逃しちゃうんですよね。それをいかにキャッチできるか。私はやっぱり人生っていうのはどれだけ御心に従って生きられるかだと思うんです。とらわれから解放されなければ見えてこない領域に本質が隠れていますからね。

—— 私も成人した子どもがいますけれども、キャッチするのってなかなか難しいと感じるのですけど、ますみさんはそこ徹底していらっしゃいますね。

宮崎:あとは、自分を癒し切る。私いろいろな場で「お母さんたちが自分を癒し切ることですよ」って言い続けているのはそこです。キャッチするには、ほんとに自分が空洞になるっていうか、いろんな汚れをほんとに解放していかないと、幼少期に寂しさだとか悲しみだとか本来の自分、無条件に愛された記憶、無条件に認めてもらった記憶が希薄だと、やっぱりぽっかり穴が開いちゃった状態で大人になっちゃうわけですね。大人になるとその満たされない自分を満たそう満たそうとするわけです。だから人に認めてもらいたい愛されたいという欲求が先に立ってしまい、本来の魂に則って生きられない。外からの期待に応えるという生き方、主観を相手に渡してしまうんです。だからそこを癒し続けるということなんです。

—— そうしないと子どもで自分を満たそうとする親になってしまうということですね。

宮崎:そうですよねー。自分が満たされなかったものを子どもに託してしまうっていうのはありますよね。

—— ますみさんの場合は、次男の照土さんが発達しょうがいを持っていらした。その照土さんの種を、どういう風に読み取り、見極めて来られたのでしょうか?

宮崎:次男は喋りが遅かったの。お兄ちゃんも言葉は遅かったのですが、心配なく喋れるようになったので、同じだろうと思っていました。で呑気に構えてたらほんとに喋らないんですね(笑)。単語を時々発するぐらいなんですよ。

—— 大体何歳くらいまでそんな感じだったんですか?

宮崎:7、8歳ですね。3歳のころある週末、ロサンゼルス郊外の自然公園に遊びに行ったんです。川で遊ばせてる時に、「あ!」って気付いた。私あまり子どもに積極的に喋りかけるとかやってないからかなって自分を責めてね。私結構家庭で無口なんですよ(笑)こういう時にこそもうちょっとコミュニケーション取らなきゃいけないな、と思って、言葉を覚えさせる目的で次男に、「ほら、見てごらん。これ、オタマジャクシと言うんだよ。これが大きくなるとね、手が出て足が出てカエルというものになるんだ」とか、とうとうと言い始めたわけですよ。そうしたらピチャピチャ水で遊んでいる次男が突然、ピッと私の方を見て私の口をパっと塞いだんですね。で、一言、「No!」て言ったんです。3歳ですよ、その目にすごい意志の力を感じたんです。もう子どもではない意志の力。その時雷に打たれたような感覚になって、あ、私はなんてことをしてしまったんだって。

—— そこに何を読み取られたのですか。

宮崎:マミーとも言ったことがないような人が「No!」って言うんですよ(笑)。人生で初めて覚えた言葉が「No!」。生き残っていくために一番必要な言葉が「No!」なんだなって(笑)。言葉とか知識とかじゃない。全身を使って今小川で遊んでる。それをこの子は今感じたいんだ、これ以上の何を私は考えてたんだろう、余計な心配をしてね。この瞬間を忘れまいと思ったわけ。この子は喋れないんじゃない、今喋ることを選んでいないんだってことを感じたわけです。それでそれを尊重しようと思った。魂のメッセージですよね。

このエピソードね、アメリカの大学に行く時に発達しょうがいの Learning Disability(LD)のサポートっていうものの申請のために、知り合いの精神科医のところで IQテストだとか色々受け直した時にドクターに言ったら、「あ、そこですね。二次しょうがいを食い止めたのはそこからなんですね」っておっしゃってくださった。

—— だとすると、場合によってはそこから二次しょうがいが始まる可能性もあったってことですよね。

宮崎:それだったら最初っからですよ。最初が大事。ある意味ね。要するに魂の意志とは違うところで、親の心配や期待や世間体で強制しよう強制しようとすればするほど魂から逸れるということですよね。そうすればするほど彼らは、発達しょうがいを持ってる人たちは特に、傷が深いんです。ここのひずみが。

—— なるほどー。

宮崎:普通の子も基本は同じですけど。この社会、本来の自分から逸れている感覚も麻痺して、自分じゃないものとして生き始めて、ある時大人になっていろんな問題が出て遠回りしますでしょ? 特に発達しょうがいの子たちはごまかしや嘘が効かないんで、わかりやすいです。だから尊重され否定されないということが大切なんです。

—— ますみさんの場合は、照土さんを授かったことで、人として何か深く気付く機会がおありになったのかなと想像するんですけれども。

宮崎:そうね。あの人がね私を育ててくれた。

—— それはどんな面ででしょうか?

宮崎:最終的に本当にそう自覚できたのは、奇跡的に大学が決まって、入学までの半年間日本でずっと彼は絵を描いていたんです、もう何時間もすごい集中力で。肩もガチガチでひどかったから、毎晩とは言わないけれどお風呂上がりにアロマでマッサージしてあげていたの。本人は「いててててそこそこそこ!」っと言っているのですけど、私はそのコリの中にイメージでヒューって入っていきました。そしたら彼の魂の声が聞こえたわけです。「マミー、卒業ですよ」って。「僕があなたに教えることは全部教え終わりました」と。「さあ、おやりなさい」て言われて。ええーー!?(大爆笑)―僕はもう自分の道行きます。アメリカに行って自分の道を進んでいきます。あなたに教えることはここまでですよ、もう卒業しましたよ、よくできましたね―みたいな(笑)。そのエネルギーは何かって思ったら、聖母マリアだったんですよ。男の子だけど。おお、聖母マリアだこの人!とか思って(笑)。

—— 彼の深い部分が、ますみさんの深い部分に語りかけてきた。

宮崎:ちっちゃい時は、ずれがないんですよ。だけど、大人になるとやっぱり、「いてててて」って表層は言ってますけど、魂では別の声がパッと聞こえちゃう。

卒業ですよと言われたんですよ。卒業ってことは彼にずっとわたしは学んで、勉強させてもらっていた。18年間育てられてきたんですね。やっと卒業できました(笑)

(インタビュアー・長岡 純)

2019年9月11日(更新日:2019年12月21日)

種はある。だから信頼して待つ

今回も宮崎ますみさんにお願いしています。

宮崎ますみさんは20代に芸能界でご活躍された後、結婚を機に1995年ロサンゼルスに転居、そこで出産も経験されました。次男の照土(あきと)さんには発達しょうがいがあります(自閉症、ADHD、LDと診断)。ますみさんは照土さんが小学2年生の時に帰国され、乳がん、離婚を経験。ヒプノセラピストとしてのお仕事のかたわら、2人の息子さんを育てて来られました。今回のインタビューでは宮崎さんが照土さんにお母さんとしてどのように寄り添って来られたかを語っていただきました。

種はある。だから信頼して待つ。

—— ますみさんがベランダで瞑想中に、これからママのお腹に入ろうという照土(あきと)さんの魂がフワフワと遊びながらやって来た時から18年間、ますみさんと照土さんには色々なことがあったのだろうと思うのですけれども。

宮崎:そうねえ。アメリカに小学校1年、2年の途中までいたのですが、ロサンゼルスから引っ越した先のハワイの学校は発達しょうがいを持っている子に対して、ロスよりちょっと遅れてるんですね。そうは言っても日本よりは全然進んでるんですが。当時まだ診断は受けていなかったんですがスクールのカウンセラーの判断で、クラスの中に一人サポートの先生が入ってくれて、時々クラスから出て同じような特徴を持つ子どもたちと一緒に別の教室で学んだり、遠足に出かけたり、親同士が交流したりしました。みんなで互いに支え合う形ですね。

—— 彼のペースややり方に合わせた授業があるということですね。

宮崎:日本の特別支援学級は普通クラスからただ隔離させるだけですよね。ハワイの小学校ではみんなと一緒にクラスで学ぶんだけれども、サポート役の先生が一人入ってくださることで適切な学習指導を受けられました。そういったサポートを受けるまで、照土は小学1年に上がって毎日泣いて帰って来てたんです。単語しか並べられなくて文章になってないんだけれどその単語を拾うと要するに、僕は悪い子なんだって。先生が怒る。僕が悪い子だから怒ると一生懸命単語を並べて訴えるんです。彼はいつもポーっと夢の中にいます。でもそれでいいんですよ、子どもは。小学校の1年2年はまだ空想の世界に遊んでていいはずの時なんだけれども、学校のルールはそうではないじゃないですか。要するに先生は、ポーっとしている照土の目の前でパンパンって大きく手を叩いて「Focus!!」てすごい剣幕で怒る(苦笑)。「Focus!! Akito!!」。で、うわー怖い~! ってね。子どもって自分の主観でその子なりに取り込んじゃうでしょ? 僕が悪い子だから先生は怒るんだ、僕は悪い子悪い子ってなっちゃう。で、「照土は悪い子じゃない!!」と、夫と二人で学校に文句言いに行きました。そしたら「いや、この子はちょっとやっぱり遅れを感じる」って。じゃあ適切なサポートを入れようって話になったのでした。

—— その段階で初めて。

宮崎:そうですね。それでサポートを受けるんだけど、その恐怖体験はもう、照土の潜在意識に埋め込まれた記憶として残ってますね。で、小学校2年生で日本に来てシュタイナー学校に入ることにしましたが、英語も全然喋れないし日本語だってわからない。動物みたいな子でした(笑)。動き回ることはしないんだけど常にぐでぐでぐでぐでしたりだとか、ポーっとしてる。発達しょうがいの子の特徴が見られるので、ちゃんと診断受けようと思って、日本に来て初めて調べたのです。

—— 診断結果が出たのですね。

宮崎: そうです。そしたらやっぱりとても色濃く自閉症とADHDとLDということでした。今は普通に見えるけど。

—— それは、お母さんの心に秘めてご本人には伝えなかったのですね。

宮崎: 言ったところでわからないし、言う必要も感じなかった。でも、ご縁ですね、引っ越した家の最寄り駅に発達支援サポートの学習センターがあったんですよ。学校が終わってから週に2回そこに通いました。あいうえおから始めて、中学入ってもまだ小学校低学年の国語をやってましたね。もうのんびり。算数もやりました。

あとはコミュニケーションとか。その道のプロフェッショナルにサポートしてもらう、それ大事だと思うんですね。

診断を受けるかどうかでお母様とかお父様、悩んで受診を遅らせてしまうことがあるんですよね。グレーだから大丈夫とか。しょうがいというレッテルを貼られる恐れというか、自分自身の羞恥心ですよね。周りからの批判だとか、恥ずかしいみたいなね。

—— ますみさんはそういうのなかったですか?

宮崎: …なかったですね(笑)。羞恥心持ってたら芸能人やってられなかった。

—— ますみさんは照土さんのしょうがいの診断を受けて、どんなお気持ちでしたか?

宮崎:ほっとしたんです。その子がどういう特徴を持っているのかを本格的に調べられるし、要するにこの子の取扱説明書ができたわけですよ。

—— 何をサポートすればいいかっていうことも見えてくるということですね。

宮崎: 何だかわからなくてどうサポートすればいいのか。どう表現すれば彼はキャッチできるのか。彼から見た目線で世界はどう見えているのか。どんなコミュニケーションになってるのか、曲解して入れちゃってるのかだとか、いろんなことがわかったから、次にどうしようかと対策できたわけです。心配だとか不安だとか悶々と抱えて自分が否定してたら、その悶々をどうにかしようと子どもを責めたり、何とかできるようにさせようだとか、それこそその子の本質から逸れるようなことばっかり刺激してしまって、二次しょうがい、三次しょうがいみたいなことにもなっていっちゃう。

—— なるほど…。

宮崎:種はあるんです。素晴らしいものは持って生まれて来ているので、そこを信頼してね。できないことを責めるんじゃなくて、そこはサポートしながら、待つ。待つ、待つ、待つ。

—— 信頼してそして待つ。

宮崎:そうですね、信頼すること。あと大事なのは 「可愛い、可愛い」(笑)。愛ですよ、愛。一番欲しいのは、ハグと大好き、愛してるって言葉ですから。

—— さっきおっしゃっていた最寄り駅にあった支援センターでのお勉強はずっと続けてらしたんですか。

宮崎:ずっと、高校を出るまでやってました。必要でした。高校に入ってもまだまだフワフワでしたから。その支援センターに通ってね、夕方彼がお勉強してる時間、私は近くでお買い物して、スーパーの手提げ袋を持ってお迎えに行って一緒に帰るんです。

ある時、私が手提げ袋を持って歩いていたら、単語並べてですけども、ちびの彼が要するに〔この袋僕が持ってあげる!〕て言ったんですね。その時私、はー、神様!って。もうほんとに優しいんです。誰に教わったわけでもないのに自ら人を助けたいっていう想いを持ってる。こんな優しい子になぜこんなしょうがいというハンディを与えたんですかって思いがわっと出て来たんです。ずっとこのままいくんじゃないかという不安をみんな抱えるんですね。単語も全く出て来なくて喋らない動物のような子どもが、将来どうやって生きていけるんだろう。どうやって食べていけるんだろう。いつまでも私たちはケアできない。どうするんだろうって、やっぱり不安がブワーって出て来たんですよ、私もね。で、「神様、なぜこんなハンディを与えたんですかー」って、ちょっと被害者意識じゃないけどやっぱりあったわけです。

「この子将来、何ができるんだろう?」と心の中で思ったその瞬間に、照土が、「僕、なんだってできるよ」ってドンと言ったんですね。ええ?って。ええっ!心読んだ!みたいな(笑)。

—— それはびっくりですね。

宮崎:はい、私が思ったことに対して僕はなんだってできるってことを言ったわけです。この瞬間を絶対一生忘れないと思いました。本人が、なんだってできるって言っているのに、将来を心配する私の想念が彼の人生を操作することってあるでしょう、要するに意識がね。特に子どもに対しては親の意識がすごく影響しますからね。余計なエネルギーをくっつけちゃまずいと思ったわけ。本人ができると言ってるのに、できない未来を私がイメージして心配してた。あーもうこれ一生忘れない、絶対もう二度としまいと思った。

 それから、高校に上がったあたりで、もうティーンエイージャーですよね。その支援センターの帰りに、たまたま一緒にインド料理屋に入ったんですね。そこで喋ってて、先生と進路の話とか色々出て、初めて彼も彼なりに自分を感じ始めてる。で「僕は、何ができるんだろう。」って彼が突然将来に対する不安を口に出したんです。あ、来た!と思って「あーくん、なんだってできるよ!」彼が昔、私に言った言葉を言いました。「あーくんはなんだってできるよ!」

そしたら「マミー、子どもをだますようなことを言っちゃいけない」みたいなことを言ったんです。

「えー!?あーくんがちっちゃい時に言ったんだよ。忘れちゃったの?」って。

「あなたはなんだってできる」。自分が本当に望むところをしっかりやって、逸らすんじゃない、という話をしてね。そしたら簡単なんですよ。暗示が入りやすいので。

「そっかあ。」って (笑)。私の子育ては、暗示療法家ですので(笑) 親が子どもに発する言葉は、その子を生かしもするし潰しもします。全部暗示になるんです。

でもやっぱりそうは言ってもクラスメイトとのコミュニケーションが難しいことも自分で自覚しているわけですね。自分はちょっとおかしい。普通じゃないな。みんなの態度がちょっと違う。だからやっぱり外に出れば、自分と外の世界との違和感を感じるんですよ。でもそれを言語化できるまでには至ってない。そこでその雰囲気を持って家に帰って来た時には「何があったの?」と、そのことをたどたどしい単語を並べて語らせて、その都度落ちた気分を持ち上げて自尊心を守ろうとしたわけです、私は。彼らは自分をすぐ否定してしまう。自分がだめ、自分はできないと。

—— 自己否定しやすいのはなぜでしょう。

宮崎:素直だから。あとは曲解しちゃうんですね。普通だったらわかるであろうことを、「え、そう感じちゃったの?」っていうこともいっぱい彼らはあるわけです。冗談も通じないし、空気も読み取れない。だからそのまま間違って取り入れちゃって。例えば「馬鹿かお前は」なんて言われたら、「あ、自分バカなんだ」と素直なわけなんです。そういったものを細かく聞き出して、気持ちを上げてっていうことを続けてきました。ネガティブな暗示をポジティブに書き換える作業の連続です。そうやって自尊心を徹底してキープしてきました。

—— 日々子どもを観察するお母さんの目っていうのが大事ですね。

宮崎:まあでも私、母子家庭で忙しくてね。実際にあんまり観察してませんでしたけどね(笑)。あんまり神経質じゃなかった。あと、彼のことも運んでいるであろうハイヤースピリットっていうか御心を信頼してました。

(インタビュアー・長岡 純)

2019年9月25日(更新日:2019年12月21日)

あなたはあなたのままでいい

宮崎ますみさんは20代に芸能界でご活躍された後、結婚を機に1995年ロサンゼルスに転居、そこで出産も経験されました。次男の照土(あきと)さんには発達しょうがいがあります(自閉症、ADHD 、LD と診断)。ますみさんは照土さんが小学2年生の時に帰国され、乳がん、離婚を経験。ヒプノセラピストとしてのお仕事のかたわら、2人の息子さんを育てて来られました。今回のインタビューでは宮崎さんが照土さんにお母さんとしてどのように寄り添って来られたかを語っていただきました。

子どもを尊重するには、お母さんが自分自身を愛し魂を開花させて生きる。

—— 照土(あきと)さんが、シュタイナー学校でクラスメイトに受け入れられていった経緯もお聞かせくださいますか?

宮崎:やっぱり皆さん、照土のキャラクターに戸惑っていらっしゃったので、診断を受けてすぐね、私は保護者の方々に、彼を知っていただくために、お話をさせていただきました。まだ当時発達しょうがいっていうこともそれ程は耳に入って来なかったと思うんですね。

発達しょうがいでも色々あるじゃないですか。で、うちの場合は自閉症と ADHD と LD 。それのどこが色濃いのか、聴覚の LD はこういう特徴があって、こんなことでこう言われるとわからなくて間違いを犯すことがあってと私も語って、全部をプリントアウトして、保護者の皆さんに伝えたんですね。それで最後に彼は発達しょうがいですけれど、私の中ではもう昇華しているのでこれは神様からのギフトだと思ってるというお話をしたら全員お母さんが泣いてくださった。これまで理解できてなくて、彼には非常に不憫な思いをさせたかもしれないー、なんて言ってくれてみんな優しいんですよ。それで、シュタイナーでは普通しないんですが、彼のために時間割表や何かの当番を教室に貼ってくださったりもしました。

—— 照土さんが目で見てわかるように対応をしてくださったんですね。

宮崎:そうです、理解できるように。こういう表現は彼にはこんな風に言ってください、彼に何か伝えたい時は絵を描きながら伝えると分かりやすいですとか、クラスみんながその助けをしてくれたの。

—— それまではちょっと変わってるところのある子なのかなみたいな感じだったのが、表に出したことでみんなが何ができるのかっていう発想に変わっていったんですね。

宮崎:子どもたちも、人の助けをしたいっていうものを持ってるんですね。だからそれを引き出してあげることにもなったのです。

ある時学校で発表会みたいなものがあって、みんな並んでリコーダーを吹いたあと、下がってくる時に照土がリコーダーを落としちゃって、次やらなきゃいけないことをその瞬間に忘れて、リコーダーに必死になってたんです。そしたら隣の女の子が「照土、これはあとでいいよ。今はね、ほら、あれをやる時だよね」って言ってくれた。おーっすご、小学生にして照土の取り扱いに慣れてる!って(笑)。

—— ますみさんの方からしょうがいを公表したことがきっかけとなったのですね。

宮崎:慣れたんでしょうね、照土との付き合い方に。発表会の時にそういった的確な対応を同級生がしてくれて、照土ははっと我に返って、「そうなんだ、じゃ、これはあとで」って、ちゃんとみんなと一緒にできたわけです。やっぱりそういうことの訓練は必要ですよね。

—— 訓練ができるためには周りの人の理解も必要ですね。環境と言うのでしょうか。

宮崎:それが一番必要。そうですね、環境、理解を促す。

—— そしてますみさんの場合は、しょうがいをオープンにして伝えることで、環境が整えられていったってことなんですね。

宮崎:そうですね、無駄に傷付くようなことから彼を守ったっていうか、やっぱり積極的に働きかけていくことは必要なんですよね。

—— 照土さんは今、希望通り留学して、アメリカの大学で映画作りを学んでいらっしゃる。ますみさんはお母さんとして照土さんのこれからのことをどういう風に思っていらっしゃいますか?

宮崎:さあ…(笑)、どうでしょうね。「僕は自分の道行きますから」って言った瞬間に、私はマミー卒業で、ああもう子育ては終わったってほんとに思っているので、あと母親にできることは祈りでしかない。

—— 祈り。

宮崎:毎朝毎晩。ほんとに魂に則って、いろんなことがありますよね。でもあるのが人生であって、それを無いようにって私たち親は錯覚して子どもを守ろうとするじゃないですか。

—— お母さんとして子どもをつらい思いから守りたいというのはある意味当然ですよね。

宮崎:あれをしたら危険これをしたらダメと、知らず知らずのうちに愛情という名の縛りを与えてしまう。それでは経験から学べなくなる。しかもその助言は親自身の経験値でしかない。子どもというのはもっと無限の可能性を秘めているものなんですよ。

彼は今、寮に入っていて4人のルームメイトと暮らしているんですが、その一人がダストアレルギーで、過敏症でちょっとでも汚すとものすごく怒るのでほんとにみんな困ってると言うのです。発達しょうがいを持ってる照土は、そういったものに対して結構グーッと考え込んでしまって、ワーって感情的に怒られるとそれが深く突き刺さる。感受性は変わらないんですね。彼もしんどい思いをしてる。

「僕はやってるんだよ、ちゃんとお掃除しているんだけども」って。聞き出したらそう言うから、スクールの方でちゃんと相談してるの?って。そしたら、やっぱり4人で解決しなさいって言われたって。でも偉いのは彼らちゃんと話し合ってルールも決めてる。

—— そうなんですか。

宮崎:それでもなかなかダストアレルギーの子の態度は変わらないし、最近ではもう同じ部屋にいるのにみんなを無視して、メールでしかコミュニケーションを取らない。「彼は最近の子なんだよ。」って(笑)。でもあなた自身もかなり追い込まれてるから、それをスクールカウンセラーにこういう風に相談するといいよって。そのために発達しょうがい支援のサポートセンターがあるんだから、とそう伝えました。こういったことを彼に伝える時に、まずステップ1、連絡をとる、ステップ2、悩み事を伝える、ステップ3、それについて話し合い解決策を考える、といった具合に噛み砕いて整理整頓して伝えないと理解できないんです。

でも最近は結構普通に喋れてるから、つい私も彼の苦手な部分を忘れて一気にペラペラと喋ってしまう。すると「お、ちょっと待って、マミー。もうちょっとわかりやすく、はい、ステップ1は何だっけ?」みたいな感じで(笑)リクエストしてきます。

—— 学年も上がってきましたね。

宮崎:大学2年で段々勉強も難しくなってきてるんですねー。時間をかけて自分のペースで、何年かかってもいいと思ってます。勉強の仕方がわからなかったらちゃんと教えてもらいなさい。その為に申請してるんでしょうって。

—— そういう大学側のサポートも、発達しょうがいの学生にはちゃんとあるわけですね。

宮崎:あるんです。入学した時に、それを提出しているので、単位を普通だったら5つ6つ取らなきゃいけないところを4つぐらいにしておくとか、ほんと、無理しないっていうところですね。

—— 照土さんの将来を、ますみさんはどんな風にお考えですか?そろそろ大人としての人生に入っていきますでしょ。これまではその準備という風にも捉えられるかと思いますけれども。

宮崎:そうねえ。発達しょうがいの子ってこうなりますでしょう? (目の前のことに集中してしまうという動作で)。 映画というものに彼は出会ったことで、ものすごく色々な脳の回路が繋がって、社会との折り合い、コミュニケーションがうまくいき始めたわけですね。やっぱり本当に好きなものを一つでも見つける、それをさせる、それによってどんどん脳の回路も繋がっていく。それこそ成長しています。

—— 繋がっていくっていうのは、例えば支援センターに通って言葉や算数をずっと習ってきたことや、ますみさんが地道に働きかけてきたことが、照土くんが好きなことを得たことで全部繋がっていく。そういった意味でしょうか?

宮崎:そうですね、色々と蓄積して今あるわけだけれど、それをアウトプットして表現する力がちょっと足りないっていうか、回路がちょっと繋がっていないところ、そこが最終的にバババババと繋がっていった。

—— それは誰かがやってあげるのじゃなく、照土さん自身が大好きな映画というものに出会い、自分の内からそのような変化が起きていった。

宮崎:そうですね。やっぱりモチベーション。自分が好きなものに巡り合ったこと。コミュニケーションというのも人の感情がどうとかも全部映画の登場人物の、そのドラマを見て覚えていきますよね。

—— 見ることで自分がどういう風にすればいいか分かったのですね。

宮崎:引出しを作るということですね。

一つひとつ積み重ねた訓練が必要だしほんとに大事ですね。今思えば診断はほんとに早めに。そして早めに訓練し始めて良かったと思います。不安でもやもやとしたまま、親も子もストレスを抱えて、余計な間違った教育をしてしまえばそれが二次しょうがいにも繋がり、さらに精神疾患にもなりかねませんからね。そこだけは私は防ぎたいんですよ。

—— それにはやっぱり早期の診断と、それを認められる親でいるということ。

宮崎:そうです、それと的確な教育環境を整える。そうすれば必ず芽が出ると思います。うちの照土が発達しょうがいだってことをちゃんと主張できるのは、極力自己否定はさせないように育ててきて、あなたはあなたのままでいい、あなたは素晴らしいキャラクターを持ってる。でもこういうキャラクターだから、自分の取り扱いとして、こういう風に主張しなさいだとか、コミュニケーションスキルを教えたわけです。

—— あなたはあなたのままでいい、そう言えたら素晴らしいですね。

宮崎:やっぱり母親が自分自身の羞恥心だとか、恥ずかしいって想いを克服するのが一番です。それを持ったまま子育てしたら、それが子どもに 自分=恥ずかしい、と連鎖しますから。だから母親自身が自分を認められる人間に、自分をちゃんと許して受け入れて、この自分を素敵に生きていきたい、自分を大切にするっていうことをしてなきゃいけない。

—— 最近、発達しょうがいがメディアでも取り上げられていますけれども、そういうお子様を持たれた親御さんたちが、どうしていったらいいのか、ますみさんが今までやって来られたご経験を踏まえて、一番今お伝えになりたいことをお願いします。

宮崎:うーん…色々あるんですけど、まずはやっぱり…どうしても必死になってちゃんと子育てしなきゃだとかそんなプレッシャーにつぶされそうになるのがお母さんだとは思うんですけれども、特に発達しょうがいの子を持ったお母さん方に私が一番伝えたいことは、やっぱり “ただ、生きていればいいじゃない?” ってことなんです。基本まずは愛しい我が子がそこに存在してくれてる、生きてるっていうだけでほんとに幸せなことでね。まずそこがベースにあって、そしてお母さん自身が自分を生きる。自分を愛して本当の自分の魂を開花させながら生きるってことができて初めて子どもの存在を丸ごと尊重できるのでね。私が照土を育てさせていただいて、彼に磨かれた。それは私自身の癒しのプロセスだったっていうことです。

—— 子どものことのようで、結局課題は自分に戻る。

宮崎:そうですねー。私自身が過去、自分の色々なインナーチャイルドを抱えてました。母親から私のあるがままを愛してもらったという記憶が非常に薄かったのですが、そこを子育てする中で癒していけたかなあ。あるがままで尊重されたかったっていう自分の欲求も、子どもにはその子を否定するようなことはしないことで満たしていった。

あとは、外ではいろんなことで傷付いて帰って来ますので、家は安全な場所を作ってあげたい。学校や色々な環境を整えること、それは私、必死にやりました。

どんな自分のことも認めてくれて愛されてるっていう安心感、その愛がベースにあれば、積み重ねた訓練によって、そして自分がほんとにこれだ!っていう好きなものに巡り合い、没頭できるような、情熱を傾けられるようなものに出会った時に、その命は輝き出す、芽が出て来ると思うのです。

—— 今日はとっても素敵なお話をありがとうございました。照土さんがほんとにやりたかった映像の勉強をしに、発達しょうがいを持ちながら、生まれた地でもあるアメリカの大学に戻って、ご自分の道を歩んでいらっしゃる。そこに至るまでのますみさん親子のたどられたプロセスを伺って、たくさんの大切なことに気付かせていただき、心の底から尊敬の念が湧きました。またご自分の目指すものを見つけた照土さんが、この先どんなふうに人生を歩まれるのか、これからも注視していきたいし楽しみだなと思います。

(インタビュアー・長岡 純)

【関連情報】

★ショートフィルム「顔を上げて進め (Move on up)」宮崎照土作★

https://www.facebook.com/akito.miyazaki.33/videos/1969531646456154/UzpfSTEwMDAwMjIwNTc4MzAwNDoyMDAyNjQ2MDQ5ODE4OTAy/

※発達障害の早期発見に関しては、2004年12月に発達障害者支援法が制定され、乳幼児健診等で発達障害児の早期発見と本人、家族に対する支援、診断や発達支援を行うことができる病院等の確保が国や地方公共団体に義務付けられました。また2016年には、個人としての尊厳に相応しい日常生活、社会生活を営むことができるよう支援が切れ目なく行われることを盛り込んだものに改正されました。

お子さんのことで気になることがあったら、市区町村ごとに設置されている地域子育て支援拠点事業や、保健所保健センターによる乳幼児検診や相談のサービスも利用することができます。(2019年9月 編集部)